日本はいつ、この輪に入ったのか——万博と、1973年の法律

1970年の大阪万博は、ATAカルネなしで開かれた。その3年後に公布された昭和48年法律第70号は「保証の連鎖」をそのまま国内法の条文にしている。日本がATA条約に加わるまでの経緯。

※ 本稿は「ATAカルネはなぜ生まれたのか」から続くシリーズの第2回です。

1970年3月15日、大阪・千里丘陵で日本万国博覧会が開幕した。日本を含む77か国と4つの国際機関が参加し、116のパビリオンが並んだ。9月13日までの183日間で、入場者は6,421万人を超えた。当時としては万博史上最大の規模である。

展示された物は、当然ながらどこかから運ばれてきた。そして閉幕後、そのほとんどがどこかへ帰っていった。

ここで、前回の話を思い出してほしい。ATAカルネ——一時的に持ち込んで必ず持ち帰る物のための、免税の通関手帳。1961年に条約が採択され、1963年に発効し、ヨーロッパを中心に普及していた仕組みだ。

1970年の日本に、それはまだなかった。

カルネの代わりに、会場を保税地域にした

日本がATA条約に参加していない以上、万博に集まった展示物は、カルネを使えない。

その代わりに用意されていたのは、物品の側ではなく場所の側の仕組みだった。1967年(昭和42年)の関税法改正で、国会は「万国博覧会の開催に備えて」保税展示場という制度を新設している。1969年4月8日の参議院内閣委員会では、外国から来る設備の関税を問われた通商産業省の井上保参事官が、「会場自身が関税法の保税地域に指定されておりまして、そこへ入ってくるものは無税であります」と答えている。

一冊の手帳で物品ごとに関税を留保するのではなく、会場ごと、外国貨物のまま置いてよい場所にする。1970年の万博は、その方法で開かれた。保税展示場という制度の成り立ちは別の記事で書いた。

1973年、日本の周りで起きていたこと

万博の3年後、1973年は日本の対外経済にとって節目の年だった。

2月、円が変動相場制へ移行した。 固定相場の時代が終わり、日本経済は本格的に国際市場の変動にさらされることになる。

9月、GATT東京ラウンドが始まった。 貿易自由化の多国間交渉であり、その開始を宣言した閣僚会議の開催地は東京だった。日本が通商ルールを作る側に立つことを、内外に示した場でもある。

10月、第一次石油危機が起きた。 資源を持たない国が、輸出以外に生きる道を持たないという事実が、誰の目にも明らかになった。

貿易黒字を積み上げながら、同時に「開かれた国」であることを証明しなければならない。1973年の日本は、そういう位置に立っていた。

8月11日、法律第70号

そしてこの年の8月11日、「物品の一時輸入のための通関手帳に関する通関条約(ATA条約)の実施に伴う関税法等の特例に関する法律」——昭和48年法律第70号——が公布された。

短い法律だが、中身は的確だ。関税法と関税定率法の特例を定めたうえで、核心はここにある。

保証団体を、大蔵大臣の認可制とする。 そして、その保証団体は、カルネで輸入した者が輸入税を徴収されることになったとき、その者と連帯して輸入税を納付する義務を負う。

前回書いた「保証の連鎖」が、そのまま日本の法律の条文になっている。国際的な仕組みを国内法に接続するとは、こういう作業なのだ。

同年10月23日には施行規則(大蔵省令第53号)が定められ、制度は動き出した。日本商事仲裁協会が、日本商工会議所からの包括委託業務として、ATAカルネの発給と保証を開始する。

万博の閉幕から、3年と1か月後のことだった。

なぜ商工会議所を経由するのか

日本商事仲裁協会が発給する、という形は前回も触れたが、実際には日本商工会議所からの包括委託という構造になっている。ここには理由がある。

ATAカルネの保証の連鎖は、国際商業会議所(ICC)の世界商工会議所連盟が統括している。つまり各国の窓口は、原則として商工会議所なのだ。日本もその例に漏れず、日本商工会議所が国際的な輪に接続し、実務を仲裁協会が担う。二段構えになっている。

条約は国と国が結ぶが、カルネを回しているのは商工会議所のネットワークである。国家の制度と民間の組織が、途中で握手している。この構造は覚えておく価値がある——次回、条約が使えない相手との話をするときに、もう一度効いてくるからだ。

取り立てにも期限がある

この法律まわりで、個人的に感心した規定がひとつある。

保証団体に対して輸入税を賦課できる期間は、カルネに記載された有効期限から1年を経過した日以後はできない、と条約に基づいて定められている。

保証団体は、他人の債務を無期限に背負うわけではない。国家の側が、自ら取り立ての期限を切っている。民間に保証させる制度を成立させるには、民間が負うリスクの輪郭をはっきりさせる必要がある——そういう設計思想が読み取れる。

信用の連鎖は、無限責任の上には成り立たない。

因果は、証明できない

ここで正直に書いておきたい。

万博の経験が日本のATA条約参加を後押しした、と示す資料は見つからなかった。1970年に万博があり、1973年に法律ができた、という時系列があるだけである。

しかも万博そのものは、会場を保税地域にするという別の仕組みで開かれている。だから両者を因果で結ぶことはしない。

同じ1973年には、保税展示場の要件を緩めて幅広く使えるようにする関税法の改正も行われている。物品の側から関税を留保するカルネと、場所の側から留保する保税展示場。一時的に持ち込んで持ち帰る展示品という同じ問題に対する二つの仕組みが、この年に揃ったことは記録から言える。

そして、隣にはもう届かなかった

1970年、日本は世界を迎え入れた。1973年、日本は世界の仕組みに加わった。

しかしその間の1972年、日本は隣にある重要な貿易相手との外交関係を失っている。条約に加わっても、その相手にだけはカルネが届かない。

その空白を、日本と台湾はどう埋めたのか。次回、SCCカルネの話をする。


主な参照

  • 物品の一時輸入のための通関手帳に関する通関条約(ATA条約)の実施に伴う関税法等の特例に関する法律(昭和48年法律第70号、1973年8月11日公布)
  • 同法施行規則(昭和48年10月23日大蔵省令第53号)
  • 税関「特例法基本通達」第5章 ATA条約特例法関係
  • 一般社団法人 日本商事仲裁協会(JCAA)沿革
  • 外務省「日本における国際博覧会」/日本万国博覧会記念基金
  • 国会会議録検索システム:第55回国会 衆議院大蔵委員会 1967年4月19日(保税展示場制度の新設)、第61回国会 参議院内閣委員会 1969年4月8日(万博会場の関税上の取扱い)、第71回国会 参議院大蔵委員会 1973年3月27日(保税展示場の要件緩和)

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佐々木 慎 / 株式会社パシフィック

2004年から国際展示会の物流に携わっています。

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